はなコトバ

 

「あなたはいつもそうね」
 背中に言葉を負ったまま、男は部屋を去った。
 ドアの閉まる音とともに、女の顔に一粒水が零れる。
 乱暴にクッションを手繰り寄せると、床へ叩き付けた。それだけでは収まりきらず、何度か拳でクッションを殴る。息を荒く弾ませながらクッションを彼の去った方へ投げつけると、近くの花瓶がバランスを崩した。あ、と思うと同時に、勢いの良い音が響きわたる。
 自己嫌悪。
 しかし、すぐに片づける気にはならず、呆然とその花瓶を見つめた。辺りには昨日生けたばかりのアネモネと、破片と、水たまり。
 視線を巡らせて、机の上にはラップのかかった豪華な食事……。昨日の夜には無くなっていたはずなのに……。
 こんなことになるなんて……。
 溜め息をついた。

 ……もうだめかもしれない……。
 もう2人の日常生活は戻ってこないかもしれない。




 出会ったのは去年。友達に突然呼び出された合コンで。
 出会って2時間後にケンカした。
 その場の雰囲気に自分を合わせていたから、あからさまに嫌悪を出していた広人にむかついた。
 一方的に怒鳴り散らして、帰ってきた言葉は「それで?」。
 もちろん怒りは倍増した。
その後、友人たちの仲裁でなんとなく休戦をして、なんとなく返り道に2人きりになった。
 ひどい八つ当たりしたから、どんな顔をしていいのかわからないこともあって、無言で広人の後ろに付いていった。
 駅に向かう帰り道。
 一応駅へと送っていってくれていた、らしい。
 というのも、広人の家がその近くだというのを知ったのはその1週間後だったのだ。
 春先のまだ寒い日だった。
 吐いた息がいちいち白くなっていたことをよく覚えている。
 一言の会話もなくて、だんだん拗ねた子どものように石蹴りをしながら歩いていた。上目使いに前を見ても、振り向こうともしない広人の背中だけが見えた。
 駅前について、小声でアリガトウを言って、振り向きもせずに帰るつもりだった。
 それなのに、急に後ろからボソっと声がしたことに思わず振り返ってしまった。
 「ごめん」
 困ったような微笑。
 反則だ。
 思わず電話番号を教えてしまったのも、不覚だった。


 それが、アイツこと中野広人との出会い。


 その5日後。そろそろ合コンのことも忘れかけた頃。夜も更けて寝ようと思ったその時だった。
 携帯電話のコール音が鳴り響く。
 知らない電話番号に躊躇して、でもあまりにもしつこく鳴りつづけるので受話ボタンを押す。
 向こうから聞こえた音は、静かな声。
 「ごめん、寝てた?」
 30分後には次の日に2人で会うことが決まっていて、その半年後、一緒に暮らすことになった。
 それから半年間ケンカをしたり、泣きわめいたり。でも、ずっと一緒にいた……。



 ケンカなんて日常茶飯事だった。
 でも今日の原因は、絶対に向こうが悪い。
 せっかくの誕生日だからご馳走をつくって待ってたのに……帰ってこなかったから……。
 好きなものいっぱい作ったのに、プレゼント用意して待ってたのに……。
 だから帰ってきたときは「おかえり」すら言わなかった。テーブルの上に用意されていた食事を見て、広人は一言言った。
 「何かあったの?」―――――――――許せるはずがない。
 いつもは、ケンカするたびに広人はすぐにポツリと謝って、有耶無耶に終わる。そのはずなのに、今日は……?

 「もぅっ!!なんで帰ってこないのよっっ!!!」
 あれからすでに1時間が経とうとしている。
 だから自然と相手がいない八つ当たりが始まる。
 「もう別れるてやるんだからっ。もう絶対許さないんだから」
 そう言いながらも立ち上がろうとはせず、ノロノロと這ってクッションを取りにいく。
 顔を埋めると、近くに散乱している花―――アネモネ―――を見る。
 広人が前に、きれいだねと言っていたから昨日買ってきたのに。
 ふと、花言葉を想い出す。―――あなたを愛します―――そんな意味もある。
 昨日買ってきたときは、まさにそれだった。だけど……。
 ―――見捨てられたもの―――、今はそっちの意味が、心を刺す。

 「もう……許さないんだから……」
 再び目に涙が浮かんできたとき、不意に呼び鈴が鳴った。
 涙でぐちゃぐちゃになった顔を誰かに見せるなんてことできなくて、放っておいた。どうせ二人のどっちかの友人か、隣人が回覧板を回しにきただけだろう。出なければ諦めて帰ってくれるだけだ。
 しかし今日の客は諦めなかった。ピンポンクラッシュが続く。
 いい加減、騒音に耐えられなくなり仕方なくドアの前へ立つ。
 「どなたですか?」
 自分が、涙のつまった鼻声であることに気付く。こんな声を聞かれることが恥ずかしい。
 しばらく経って「おれ」という声がした。

 ……なんで自分で入ってこないのよ。
 「開ければ?」
 「開けてくれよ」
 むぅ、と片頬を膨らませながらドアに近づく。さっき広人が出ていったまま、鍵は開いていた。
 片足をサンダルに突っ込んでドアを開いた。

 目の前に紫が広がる。

 「なにこれ?」
 「チューリップ」
 それはみればわかる。
 「おわびのつもり?」
 「お祝いなんだけど」
 一瞬怒りを忘れて頭に疑問符が広がる。
 「覚えてない?去年の今日」
 ――――――――――――――あ。

 涙がこぼれる。
 「もぅ……」
 馬鹿。
 「どうしてこんなことばっかり……」
 「嬉しくないの?」
 憮然とした表情で聞き返しながら、玄関へ入ってくる。
 どうして自分の誕生日よりも、
 「去年の今日からつき合いだしただろ?女ってそういう記念日大切にするって聞いたけど」
 ドアが閉まる。その音がやけに大きく響いた気がした。
 ……覚えてたの?
 はっきり言って、何の期待もしてなかった。だから……
 「どうしてこんなことばっかりするのよぅ」
 涙が堪えきれないであふれ出す。
 「嬉しくないの?」
 ちょっと困ったような顔で、尋ねてきた。
 「嬉しいに決まってるでしょ、ばかっ!!」
 思わず抱きつく私をあやすように、優しい声がかかった。
 「花が、つぶれるよ?」
 何を否定するのか自分でもわからず、頭を横に振る。広人の手がぶっきらぼうに頭をなでる。
 「機嫌直った?」
 「……直った」
 広人の笑顔を久しぶりに見た気がする。
 「ご飯、昨日の食べてないから、食べよう?」
 急に恥ずかしくなって、身体を離す。顔を見ないようにすぐ後ろを向いて顔を拭った。
 「ねぇ」
 後ろから声がかかる。
 「これ」
 振り向くと、手に持っている花束を差し出していた。
 「受け取ってくれないの?」
 さっきまでの怒りと、涙と、甘えが恥ずかしくなって、少しだけ責めるような口調で答える。
 「なんで紫のチューリップなの?」
 広人は途端に恥ずかしそうになって、口の中でなにやらゴニョゴニョと何やら言う。
 疑問の表情でただすと、やっと聞こえないくらいの小声で白状した。
 「……花言葉」
 「花言葉?」
 「詳しいだろ?お前」
 紫のチューリップの花言葉。

 ―――――花言葉―――――!?

 「……んとに……」
 驚きのあまり声にならず、もう一度言う。
 「本当、に?」
 「……恥ずかしかったんだからな」
 そう言って顔を背けてしまった広人の顔が紅く染まっている。
 「そう……そうなんだ……」
 「受け取れよ」
 普段なら私を怒らせる口調だが、今日は怒らない。
 「受け取って、いいのかな……」
 「嬉しくないの?」
 ぶっきらぼうに花束を差し出してくる。
 その言葉に小さな声で、しかし優しく答える。
 「嬉しいに決まってるでしょ、ばか……」
 その手から花束を受け取って、匂いを確かめながら抱きしめる。
 「ありがとう」

 広人はにっこりと笑って、靴を脱いだ。

 今日からまた、始まる。いつもと同じ、でも少し違った毎日になるだろう。
 ケンカもするだろう。仲直りもするだろう。でも、今までよりもさらに確かな毎日になるだろう。
 「さぁ、食べよう」
 もっと近くになる。
 もっと楽しくなる。
 「うん!」


 昼の暖かい日差しが部屋をさす。
 部屋の入り口に紫のチューリップが咲き誇る。花瓶はさっき割ってしまったから、コップを花瓶代わりに。





 【紫のチューリップの花言葉―――――プロポーズ】





2002.08.02

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