ラジオから流れる声が子夜を告げる。
たった一秒前が過去になる。
少女の部屋は未だに天井灯が煌々と室内を照らしていた。
少女は立ち上がると、ラジオを消した。いくつか操作を加えると、クラシック音楽がスピーカーを流れ出た。
闇に溶けながら、音が空気に霧散する。
代わりに、暖房のボーっという音が耳へ雑音を残していく。
チラリと時計を見やり、机の上の本を再び開く。ウッドクラフトの時計は12時を5分過ぎていた。
頭の隅で、遅いな、と考える。
いつもならとうにパジャマへ着替え、温かい布団にくるまれているはずだ。それなのに今日は、白いプリーツスカートに黒いアーガイルのニットセーターを着ていた。
手元の本に目を落とす。読まれることなく捲られるページ。
それに気付いて、少女は苦笑し、本を置いた。
傍らの携帯電話に目をやる。
ことの始まりは、放課後だった。
友人の優実に後ろから声をかけられた。
まだ明るい午後の下駄箱。
暖かな陽光が照らす外とは正反対に、その友人の声は凍てついていた。
慎重に、目隠しされた箱の中で手を探るように、言葉を選び出しているかのようだった。
「今夜電話する」
そう言うと、友人は手早く下足へ履き替えた。何事か尋ねようにも、それ以上は口を噤み、さっさと扉の外へと姿を消してしまった。
あの様子からすると、電話を忘失していることもないだろう。きっとこんな時間になるまで、迷想する問題があるのだ。
そう思うからこそ、まだ着替えずに電話を待っている。
しかし、重い気持ちが次々と襲いかかってくる。その度にそれを押し込める努力をしなければならなかった。
携帯電話は、鳴動をしていない。
嘆息すると、少女はそれを手に取った。
つい先日、お年玉をもらってから買い換えたものだ。何やらいろいろな機能が付いていることを説明されたが、一番手に馴染んだものを選んだ。
かけてみようか。
しばし逡巡する。
結果、メール機能を呼び出した。
友人が今まだ悩んでいるのならば、邪魔してはいけないと思ったからだ。
宛先を選び、本文を打ち込もうとした時に、バイブレーションが低音を響かせた。
驚いて一瞬のパニック。
継いでドビュッシーの『月の光』が鳴り出したとき、慌てて受話ボタンを押した。
「もしもし?」
沈黙。ノイズだけが耳を通り過ぎる。
「優実?」
舌にざらつきが残る。遠い向こう側から、微かに笑い声がした。
「どうしたの、そんなに慌てて」
「うぅん、なんでもない」
少し、いやだいぶ安堵する。手に入っていた力が抜ける。
「ごめんねー、こんな遅くに」
天真爛漫なほどに底抜けた声。
しかし、ふと疑問に思う。
友人はこんな話し方をする子だったろうか。
「まだ起きてたー?」
「うん……ねぇ、優実?」
いつもならこんな語尾の伸びたようなしゃべり方はしない。
心臓がアラームを鳴らし始める。
耳を過ぎるノイズが特徴的なことにようやく気付いた。
「優実?ねぇ、今どこにいるの?」
「どこにいると思うー?」
喉の奥で笑う。
明るいというよりも、地についていない声。その声は中へと散漫し、聞き取りづらい。
「ねぇ、どこにいると思う?天之―!」
絶叫が聞こえる。
「……酔ってるの?」
「酔ってないよー」
ガンガンと頭に脈が響く。手にはじわりと汗。
「こんな時間に外にいるの?危ないよ?ねぇ」
「ねぇ」
声に凄みが増した。
「あたしって、何だと思う?」
「優実?」
「あたしってなんだろう」
「ねぇ、どこにいるの?」
「あたしってなんで生きてるのかな?」
埒があかない。
真っ白くなろうとする頭を必死になだめるが、苛立ちが堰を切る。
「優実っ!?」
「自分が生きている意味を考えてみたことある?」
「ねぇ――――」
「答えてよっ」
身体がびくりと反応する。
これ以上友人を刺激してはいけない――――そんな気がした。
「ある、あるよ。ねぇ、今度は私の質問に答えて?今どこにいるの?」
一瞬の間をおいて、くすくすという忍び笑いが聞こえてきた。
「ここはね、星がきれいよー。天之の家も見える」
くすくすくすくす。
「まだ灯りついてる、って当たり前か。私と今電話してるもんねー」
「わたしの家?」
「毎日毎日、ウンザリするくらい来てる場所だよ」
「家が見える、毎日……」
――――それは一つしかない。
「――――……学校?学校にいるのね!?」
「そーう。屋上ってこんなに居心地がいいんだね。知らなかったよ」
屋上の出入りは禁止されていない。校舎間の通り道でもあるからだ。
それでも出入りする者はそう多くはない。せいぜい休み時間に通り抜けるか、お昼休みにランチを広げる者が数人いるくらいだ。
「屋上?屋上にいるのね」
片手で受話器を持ちながら、もう片手でコートを取る。知らぬ間の行動だった。
「どうしてそんなところにいるの?」
「どうしてかなー?」
恐怖で足は竦みそうだった。それでもなんとかコートを羽織り、ポケットへ小銭入れを突っ込んだ。
「今から行くから、待ってて!」
言うなり電話を切った。空いているポケットへ電話をすべりこませ、自転車の鍵を持つと、静かに、しかしなるべく早足で階段を下りた。音を忍ばせることができたのは、まだ少女に理性が残っていたからだった。
履き慣れた靴へ足をつっかけ、押しやるようにドアを開けた。
月が明るい夜だった。
兎が餅をついていそうな丸い月だった。
しかし、少女の目にそれは映らない。
ドアの閉まる音がしたとき、すでに自転車を道路へ引き出していた。
学校までは歩いて20分。自転車で行けば10分ちょっとで着くはずだった。
自転車通学は禁止されている。しかし通学時ではないし、そんなことを悠長に考えている隙はなかった。
ようやく通い慣れた道が、今はなん遠いことか。
必死に足を動かし続けるが、学校がいつまでも小さく感じる。
冬にそぐわない薄汗を拭うと、ようやく校門が見えた。普段は頑強に閉じているはずの校門が、細く開いていた。
そのまま自転車で構内へ乗り付け、玄関に近い場所へ乗り捨てる。
今は一刻も早く屋上へ辿り着きたかった。
昼間は少女たちの明るい苑であるはずの学校が、暗闇の中で姿を変えている。
緑色の光が薄ぼんやりと輝く校舎内を走りながら、まるでホラー映画の登場人物のようだと思った。
こんなに恐ろしい闇の中を、どうして友人は進んだのか。それほどまでに何を思い詰めていたのか。
気付かなかったと嘆く自分を叱咤しながら前へ進む。
階段へさしかかる前に、エレベーターが確かあったはずだと気付く。本来なら生徒は使用禁止だが、今はそれを咎める人も余裕もない。
ドアの開く音が辺りへ響きわたる。
箱形の機械が、まるで自分を呑み込むようにぽっかりと口を開ける。
咄嗟に身を引くが、そんなことはないと身を引き入れた。
奇妙な浮遊感。
聞き慣れない作動音が緊張を高める。
――――早くつけ、早くつけ、早く。
チンという珍妙な音と共に、目の前が拓ける。
屋上への数段の階段を上りきると、思い切りドアを開けた。
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