1.暁闇2
 友人は手すりへ腰をかけ、悠然と微笑んでいた。
 肩までのふわふわとした猫っ毛が、友人の首を揺れている。
 「来ちゃったんだ」
 残念、と笑う。その言葉とは裏腹に、楽しげでもある。
 「な、に、言って……」
 舌が喉に張り付いて言葉を呑み込む。渇いた喉がひゅうと鳴った。
 胸に手を当て、呼吸を整えようと努めるが、10分間の疾走の結果はなかなか息を潜めない。
 「優実、帰ろう。いやなら、うちに来てもいいから」
 手すりへ歩み寄る。
 足をぶらぶらと揺らしながら、友人は呟く。
 「どうして来たの?」
 思わぬ言葉にむっと顔を顰める。
 「心配したからに決まってるでしょ」
 「心配?」
 「当たり前でしょ!悩み事なら相談してくれれば――――」
 急度、友人は大笑した。心底おかしそうに、笑い声をあげていた。
 少女は呆気にとられる。
 笑いが起こるとは思ってもみなかった。
 「いつも、そう。あんたって、いつもそう」
 「優実?」
 「心配?相談?何を?」
 冷たい風が二人の間をすり抜けていた。
 友人は、トッと手すりの向こう側へ降りた。
 心臓がきゅっと冷水をかけられたように縮む。
 「優実!」
 かける言葉を失っていた。
 とにかくこちら側に戻ってくれるように何か声をかけなくては。そう思うのに、寒さに口がかちかちなるばかりだった。
 あと三歩の距離が遠い。
 「ばっかみたい」
 絶句する。
 「あんたに何を相談しろっていうのよ」
 「何って……」
 「あんたっていつもそう。いつもいい子。いつも、いつも、いつも」
 「そんなこと――――」
 手すりを離れた手が、月に白く照らされている。
 じりじりと足がコンクリートを削る。
 「いつもあんたが前にいる。先生も、友達も」
 「そんな」
 息を呑む。
 「いっつもあんたはお日様に照らされたとこにいて、私はその日陰」
 「わたしは」(いつも格好良い優実)
 「頑張って努力しても、みんなの目をあんたがさらっていく」
 「そんなこと」(みんな優実を頼りに思ってる)
 「試験だって、あんたは軽々こなしていて」
 「私だって」(私はいつも必死に努力して)
 「いつでもどこでも、『みんなの天之』。あたしはそれが羨ましかった」
 「あたしだって――――」(羨ましかった)
 「でももうやめた」
 はっとするほど、凄艶な笑み。同級生とは思えないほどの。
 「あたしは、見捨てるの」
 薄い唇がにぃ、と伸ばされる。
 背筋にぞっと、何かの手が伸びた。
 「ぜんぶ」
 口に鉄の味が広がる。いつの間にか唇の端を咬みきっていたことに気付く。
 「あたしはあたしの世界に生きる。みんないらない」
 堂々と言い放つ友人に、月のスポットライトが当たっている。
 急に目の前がぼやけた。どんなに瞠っても、世界が玉響に揺れるだけ。
 ようやく少女は自分が滂沱していることに気付いた。
 初めてだった。
 こんなに手酷く否定されたのは、初めてだった。
 自分がいかに暖かい道を選びとっていたのか分かる。
 それに比べて、友人はなんて深い思いを抱いていたことか……。
 「あたしが、あんたを、棄ててあげる」
 何か大きなものを抱くように、大きく腕を広げる。
 風雲が月を横切った。
 風が二人の少女の髪を揺らす。
 「見せてあげる」
 神々しい女神のような笑み。
 その表情に、少女は一瞬見蕩れた。
 「記憶に焼き付けて」
 宙に身を任せた友。
 まるで空中に眠るかのようなシルエット。
 瞬間、少女の足は地を蹴っていた。



 はしる
 ――――身体は空へ
 てをのばす
 ――――柵が腹へ当たり
 ゆびさきがあたる
 ――――髪は空気と遊ぶ
 てがちゅうをつかむ
 ――――姿が闇と混じり
 からだがまえのめりに
 ――――家々の灯りが星のよう
 でも
 ――――ひょうひょうと風が耳を切る
 きょうは
 ――――目の端に月が映る
 月がきれい



 強く風が吹いた。

 少女たちは、空へ。



 ――――おちる――――



 強い浮遊感が身体を襲う。
 ふと先程乗ったエレベーターを思い出した。
 回り灯籠のように、様々な記憶がフラッシュバックする。
 目の前が闇に覆われる前に、大きな月がぽっかりと見えていた気がする。



 月天心。



 ――――きれいね――――



 ぷっつり。
 暗転。






 月の明るい静かな夜。
 風の音も今はない。
 犬の遠吠えが、一声響いた。
 それを皮切りに、次々と鳴き声が響きわたる。
 呼応するように、風の鳴く音が聞こえたかと思うと、すぐに止んだ。

 『月の光』が澄んだ空に鳴り渡る。
 いつの間にか少女のポケットから滑り落ちていた二つ折りの小さな機械が、屋上の端に残されていた。
 バイブレーションの鳴動と、電子音がしばらく不協和音を奏で、携帯電話は地面を失った。

 カツン、と小さな音とともに、音楽が止む。



 もう音はない。





2009.01.02改

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