4.始元2
 ばさりと宙を揺らす音が聞こえる。
 大きな羽音だった。
 大きな黒鹿毛に乗った男が、たくましい腕を音もなく上げた。
 男の皮の籠手へすっと鷹が止まった。
 鷹の足には塵でも混ぜっ返したときに付いたような皮の紙片がくっついていた。
 よく見れば堅く結ばれているそれを、男は頓着なく解き中を見た。
「ほぉ」
 感嘆の言葉を呟くと、男は従騎士を呼んだ。
「南下する」
 一番近くにいる者のみに聞こえる声で一言漏らすと外套を翻し、後を顧みずに馬を駆けた。
 男の従者たちは慌てた様子もなくそれに付き従い、馬群はすぐに小さな影へなって消えた。
 後に残された迎えの従者たちだけが、ぽかんとしたまま取り残されていた。




 *  *  *  *  *


「……ここ、どこ……?」
 暗闇の中、いや、近くに一つだけ光源がある。
 何故か足下に広がる大きな真黄色な月。
 それが近代的を売り物にした建物のように幽玄さを醸し出している。
「なんなの、これ?」
 半分呆れたような声で言うと、少女は踞ってその光の縁を覗き込んだ。
「なんなの?」
 もう一度呟いて、前髪をかき揚げたとき、その月の上に突然人が現れた。
 驚いた弾みに尻餅をつく。
 下から現れたのでもなければ、上から現れたでもない。
 元々そこに存在した、とでもいうように佇んでいる。
 明るく輝く黄金の髪を女性のように細かく後ろへ編み上げて、瞳は蒼海。小柄な身体は女性のように細くたおやかだった。世界史の教科書で見たような服装をしている、と思った。
 少女は何の感慨もなく立ち上がる。
 驚いてないのかと問われればそうではないとしか答えられないが、夢の中で何が起こっても恐慌に陥らないのと同じだといえる。
「へぇ」
 それだけ言うと、その男は面白そうに笑った。
「なに?」
 威嚇するような目を向けると、男は悪びれた様子もなくすいませんねぇと笑い、少女へ一歩近付いた。
 互いの距離は一歩。
 ふぅんと言いながら男は少女を上から下まで眺めた。その視線に嫌らしさはない。
 だが少女には不快でしかない。
「なによ」
 男はにやりと笑うとあっけなく言った。
「端的に言うとね、君は死んだんだ」
「ふぅん、それで」
 そっけない少女の返事に、男は爆笑した。
「いやぁ、良い反応だ」
 男はひとしきり笑うと、少女へ笑顔を向けた。余裕のある優雅な笑みだった。
「初めてだよ、その反応」
「そぉ?みんなの方がおかしいんじゃない?」
「君は、死んだことに対して何の感慨もないのかな?」
「……別に。ていうか、自分から死のうとしたんだし。願ったり叶ったりなんじゃない?」
 興味なさそうに答える少女に対して、男は軽く息をついて苦笑を送った。
「君に良く似た奴を知っているよ」
 少女はつまらなさそうに髪を掻き上げた。
「たいそうかわいくない人ね」
「いや、そうでもないよ。とてもからかい甲斐のある」
 少女の顔に笑みが広がる。それは不敵で、妖艶にも見えた。
 真っ赤な唇がにぃと口角を上げると、とても少女とは思えないほどだ。
「あんた、変な人」
「お褒めの言葉、ありがたくいただいておくよ」
「どうぞご勝手に。……名前ぐらい聞いておいてあげるけど?」
「それはそれは」
 男は一歩足を後ろへ下げ、そのまま足をたたみ、跪いた。
「どうか、私のことはサン・ジェルマン伯爵、と」
「サン・ジェルマン……伯爵、どこかで聞いたような名前ね。いいわ、覚えておいてあげる」
「光栄です」
 そう言うと彼女の手を取り、そっと口づけをした。
 少女はふふと笑うと、例の妖艶な笑みを浮かべた。
「それで、ここはどこなの?地獄?」
「君の望むような処ではないことは確かだね」
 そう言って伯爵は腕を揮った。その手にいつの間にか杖が握られている。
 頭には鷲のような精密な鳥の彫り物が大きく飾られており、節の無い真っ直ぐな黒い木の杖だった。
「残念ながら、ここは時の狭間だよ」
「狭間?」
「世界は君のいたところだけではない。生きているのは自分たちだけだと思うのは驕慢だと思わないかい」
「宇宙人がどうとか、そういう話?」
 少女は鼻で笑った。
 伯爵もにこやかな笑みを返す。
「そういうのが選民思想を生み出すのさ。君が最も嫌いとするところだろう?」
 少女は途端に無表情になり、目が伯爵を初めて真っ当に捉えた。伯爵もその目を逸らさずにゆっくりと言葉を紡いだ。
「君たちのいる世界と並列して、いくつもの世界は時を刻んでいる。そのどれもの時を超えて存在しているのが、『ここ』。名前はないよ。呼びたければ勝手に呼ぶだけのことだ。普段はどの世界とも混じることはない。だが、時々時間は弛むんだね。そうして弛んだ時間が『ここ』へ入り込み、迷い込む人たちがいる。それが君たちの世界でいう神隠しとか言われる場合があるね」
「私もそういうこと?」
「君たちの場合は少し違う」
 少女の顔がさっと翳った。
 今までの適当にあしらっているという様子が反転し、心の底にふつふつと何かが沸き上がっている。
「わたし、たち……」
「そう。君、たち。君たちは『ここ』が引き寄せた」
 かっとなった少女が伯爵のローブの襟元を握りしめる。何か周りに物があれば手当たり次第投げつけてやりたいほどだった。
「じゃあ何?あの子に出会ったのも、あんなにどうしようもない感情に左右されたのも、飛び降りたのも、ぜぇんぶ決められてたことってわけ?冗談じゃないわよ。あんなに怖かったことってないわ。自分で自分がどうしようもなかったことだってない。もうどうしようもないって思って――」
「逃げたんだね」
「そうよ、逃げたのよ。あーこれでせいせいするって思ったのよ。あんな世界こっちから見限ってやったのよ。なのに、何?それが全部決められていたこと?ふっざけんじゃないわよ、何様のつもり?神さま?仏さま?人間を上から見てんじゃないわよ」
 それでも男はにやにやと笑っていた。
「私が決めたことではないよ。それに決まっているのは道だけだ。どういう感情をもってどう突き進んだ結果にそれが待っているのかは、我々の関知するところではない。君が飛び降りた末に、助けようとした友だちまでが落ちて無くなるなんていうのは、こっちから言わせてみれば勝手な成り行きだ」
 ふと手が緩んだ。少女は俯いて、表情が見とれない。
 ぽつりと少女は呟いたが、何を言ったのかまでは伯爵に届かなかった。
「泣いてもいいんだよ」
 屹度顔をあげた少女は伯爵を睨む。心の底から怒っているようだ。
「誰が泣くもんですか。私は怒っているの!」
「見ればわかる」
「さっさと言いなさいよ」
 掴んでいたローブを勢い良く払う。ローブが大きく乱れたが、伯爵はこだわりなくそれを手でなでつけ元に戻した。少女はつまらないことをしたというように、二三歩伯爵から距離を置いた。
「何を?」
「私、たちが引き寄せられたという、その理由」
「それね。ちょっと違う世界へ行ってもらうことになるんだ」
 少女の眉がきゅっとあがる。不可解だという顔だ。
 伯爵は持っている杖をトンと足下へ突いた。
 すると足下の黄華は突然色付き始める。
 野原、森、街、城郭、人々の笑う顔、見たことのない、花、空の星、村、路傍の石像、白い羽の生えた人、角の生えた人、緑の髪をした人、笑う、滄海、銀色の髪にすこし金の混じった人の、諍い、剣と剣がぶつかる、飛ぶ矢、矢の生えた草地、蒼い瞳、赤い血だまり、月、囲炉裏の火、足下、行き交う船、遊ぶ子どもたち、転ぶ、その先に生えた小さな草、雪、砂漠、草原、洞窟――。
 目まぐるしく変わる映像に、少女は足下をふらつかせた。こめかみに手を当てながらも、その映像が何なのかを必死に見取ろうとする。
 ――赤、朱、紅、瞳、髪、すべてがあかい。
「どう?」
「どうって……」
 答えられない。何を言って良いのやら。
 国が違うとか、住む地域が違うとか、そういう話ではない。
 今持っている常識を超越した世界だ。
「何よ、あれ」
 角や羽の生えた人なんて、人体上ありえない、と思う。
「ちなみにね、あの世界じゃあ、赤い色っていうのは魔の色でね。身体に魔色を持った人物は魔女って呼ばれる」
「へぇ」
 出会って最初に伯爵に言われた言葉を彼に返した。
 それ以上言われなくても、少女には伯爵の意図することはわかった。
「私がそれってこと」
「賢い子は好きだよ。手がかからないからね」
「それで、何をすればいいの。魔女になって世界を荒らす?」
 ふっと伯爵は柔らかい笑みになった。
 今までさんざ人を小馬鹿にしてきたようなものとはまるで違う。何かを悼むような、そんな優しい笑みだった。
「君の生きたいように生きる世界だよ」
「……」
「今度こそ、自分を偽らずにね、したいことをするといい」
 そうして徐に杖をあげ、少女の額を小突いた。
 その瞬間、電気が走ったように少女の頭を何かが突き抜ける。
 奔流のように、荒々しく、細やかに、頭の中身を書き換えていく。
 ふらりと、足下から崩れる。
 頭が重くて立って居られなかった。
 ――何をしたの?
 それは言葉にならなかった。
「差別はいけないからね。あっちの子と。言葉に困ることはないよ。ただ、常識まで詰め込んであげるほどお人好しじゃあないからね。それは君の目で作っていくものだ」
 少女の座り込んだ場所は、奇しくも黄華の真上だった。
「君とあの子は切っても切れない仲なんだ。まるで惹かれ合う男女のようにね。あの子は君の行く世界で王さまになる。そして君は忌み嫌われる魔女だ。また嫉妬をするかな。でも君にはもうわかっているはずだ」
 その通りだ。
 でも聞かずにはいられない。
「何を?」
「君は君でしかないということ。彼女は彼女でしかないということ」
 黄色い光が少女を包み込む。
 いや、包み込むだけではなく、彼女へ浸透していく。
 手が、足が、光に透けて気味が悪い。
「君を縛るのは君自身しかいない。それを覚えて置きなさい」
 それが遠ざかるなかで聞こえた最後の言葉だった。そして、最初に聞いた真剣な声だった。
 足下からパラパラと音を立てるように崩れていく己の形。
 うねるような得も知れぬ流れの中に、意識と身体は流されていった。


 少女の消えた後に、白い光をぼんやりと湛えた丸い形だけが残っている。
 その明かりを見ながら、伯爵はくつくつと笑いを零していた。
 先程の真剣さはどこにも見あたらない。あれが本気だったのか、芝居だったのか、伯爵にすらわからないだろう。
「あぁ、愉快だねぇ」
 伯爵がトンと杖を地へ下ろすと、辺りを闇の帳が覆い隠した。





2009.03.01改

▲戻る  ▲次へ  ▲月華地維home  ▲fiction  ▲home