4.始元1
 カタリと音が鳴り、大きな扉が開いた。
 その隙間から一筋の風が入りこみ、室内の蝋燭を全て吹き消した。
 はっと顔を上げたのは、まだ幼さの色濃く残る少女だった。
 水琴窟の水滴のようにころころと涼やかな声を挙げる。
 「誰そ」
 暗い室内に衣擦れの音がさわさわと群を成し、その間から少女の前に、一人の侍女が歩み出た。
 頭を深く垂れ、両腕を握り合わせ、頭の上へ掲げている。その他の侍女も皆同じようにしている。まだ子どもだと言っても良い、うら若い少女に対する礼としては異色にみえる。
 「宮殿へ行きます」
 さわさわという衣擦れが、人のささやき声へと成る。
 尖塔アーチで出来た教会は、天井が大天へとそびえ立ち、光と声を一層すがすがしく通す。
 「黙りゃ」
 凛とした声が、天井に高く響いた。
 さざめきは直ちに止み、崩れた姿勢を皆一斉に直した。二十人ほどの頭を見つめ、少女は厳しく声をかけた。
 「直ちに潔斎を行い、君へ拝謁します。その支度をしておくれ」
 侍女達も今度は声もなく、命へ従うのだった。

 祭壇を一歩一歩下りながら、飾り窓から差す光に目をやった。
 もうすでに日は暮れている。
 いつもならば、蝋燭の全て消えた室内は動くことのできないほどの漆黒に包まれる。しかし今夜は望月がこの室まで入り込んでいる。蝋燭の灯りには勝てないが、満ちた月の光は室内を進むだけの明かりにはなった。
 ただ一人残っていた侍女の肩に手をかける。侍女は言葉なく顔をあげる。その顔は決意に胸を踊らせ、目を爛々と輝かせていた。軽やかに立ち上がり、自分より背の低い主へ手を差し出した。その手へ小さな己の手を預けながら、少女は短く息をついた。
 「お前にも迷惑をかけるわね」
 「いえ」
 一瞬伏せた目を再び天へ向けたとき、その紫水晶のような双眸には決然とした意志が浮かんでいた。
 長く垂れた黒髪が背を隠して揺れる。結われることのないその長い髪は、この世界の神子の証だった。
 一国に一人、王の側には神子が侍る。王に成る者に星の命が宿るとすれば、神子はそれに従う双子星である。生まれる際に神託を受けその赤子は生まれるや否や神殿へ連れ込まれる、王国の囚人だった。普段は南の郭にある神殿に隠って、一日中聖宮・セルファに祈りを捧げる役目である。また、戴冠式の時には王へ冠を被せる役目も仕る。王の戴冠後は、実際に要職に就くことはないのだが、儀式や祭事のときには王の一番近くに侍すことになり、日常でも王の忌憚ない話し相手となることが多い。だからこそ重職に就いた重臣達もその存在を大いに気に掛けることになる。
 神子から一歩下がって歩く侍女は、その姿を精霊のようだといつも思う。実際に自分の目で精霊を見たことはない。精霊を見ることができるのは精霊使いだけだと言われているし、彼女自身にそのような力はないからだ。しかしそれらを描かれた絵画を眼福にあずかっている時にいつも思う。うちの神子の方が綺麗だと。見目は神子の持つ力になんら影響のあるものではないが、それに仕える者たちの大きな誇りとなる。うちの神子はこれだけ素晴らしい、他国の神子には及ぶはずもないだろうとの自負が、滅多に神殿から出ることの出来ない侍女達の鬱憤を晴らす場となる。だからこそ、神殿の者とは付き合い難いと陰口を叩かれることにもなるのだが……。
 そんなことを考えながら付き従われているとは思ってもみない当の本人は、足早に歩を進めている。のんびりした所で暮らしている割にせっかちなのだ、と侍女は思う。
 「祇官長へ先触れを出しておいて」
 それだけ言うと、湯浴場へ一人でとっとと行ってしまう。
 侍女はため息をつくと、すれ違った若年の侍女へ用向きを伝え走らせた。自身は神子を出迎えるための用意へ走る。
 こんなはずではなかったのに。走りながら思う。
 ――――4年振りなのに。外の世界へ出るのは。




 神殿で数多の蝋燭が吹き消された頃、王女の寝室では一つの異変が起こっていた。

 (ここはどこ?)
 暗闇の奥にうっすらと見えるものは、触れたら滑らかに肌にすべりそうな絹布だった。それにしても天井ほど高くに張られている。
 (どこにいるの、わたし。
 あぁ、そうか。)
 ――――ワタシ、シンデ、ウマレカワッタンダ。
 回りから聞こえる音は脳まで届かず、音を音と認識できずにいた。うわんうわんと耳の奥がなる。そのせいでふらつく頭を冷やすため、片手を額に乗せる。ひやりとして気持ちよかった。
 背筋の強張りが苦痛で、なかなか腕に力が入らない。何度も柔らかな敷布を掻き、ようやく身を引き上げにかかった。ようやく上半身を起こしたところで、貧血が起こる。目の前が暗く狭まり、耳鳴りがひどくなった。ひとまず両手で顔を覆い、自分を落ち着かせた。視界を遮断させると、耳がよく聞こえるようになってくる。
 ごとり、と鈍い音が聞こえた。水の跳ねる音とぐわんぐわんと鉦が鳴るような音もした。
 目を瞬かせながら、音の方を見る。
 ざわりと大勢が動く気配が肌を衝く。
 すぐ側に、自分に影を落とす存在があることに気付く。
 ゆっくりと顔を上げると、驚愕の境地に立ったような顔をしている男が立っている。可哀想に目を限界まで見開いている。どこかで見たような顔の気がした。
 蝋燭に馴れた目を凝らしてみると、淡い金髪に紺碧の瞳。美術館で見る天使画のようだ。綺麗なのに、人を寄せ付けない空気を身に纏っている。
 わたしを呼びに来たのかしら。それともマリアに懐胎を告げに来た大天使ガブリエルのように、何かを告げに来たのかしら。
 ふと頭に一つの文章が浮かんだ。ほとんど思いついたと同時に口を吐くように出る。
 『あなたはしんじられる?』
 言葉にならず、音にも成らないような呟きだった。それでも男の眉が跳ね上がったように見えた。
 「シュリア様――――」
 男が喘ぐように口にした名前にも聞き覚えがあった。
 ――――あぁわたしのことか。
 そう思うと同時に、視界が真っ暗闇へと落ちていった。





2009.01.16改

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