2.死覇
 手首をとっていた侍医が、力無く首を振った。
 それを機に、枕頭に集っていた泣き女たちがわっと声を挙げる。

 そんなはずはないのに……
 ――――国は死んだ



 泣き女達も下がり、静かになったのを見計らって、鬱前としていた祇官長は枕元へ侍った。

 寝台へ横たわる女性。
 青翠の瞳も、絳唇も、もう自らの意志で開くことはない。
 『雪月の玉』と評される美しさは、今も尚輝いているのに。
 彼女こそが、彼の主だった。

 明後日には戴冠式が行われ、正式な王として君臨するはずだった女性。
 それは5日前のことだった。宮廷の中庭に出ていた彼女は突然崩れ落ちたのだ。側にいた侍女は慌てて駆け寄り、もう一人の侍女は侍従長へ変事を告げた。宮廷中にいた貴族たちがこぞって見舞いに訪れた。それは壮観だった。戴冠式のために国中から主だった者が集まっているからだ。
 しかし彼らの誰とも王女は会えなかった。眠っているからではない。突然倒れた理由がわからないからだ。もしかしたら疫病かもわからない。そんなところに綿々たる人を通すことはできなかった。
 侍従長や祇官長でさえ、面通しされたのは、ようやく疫病ではないと判断が下された昨日のことだった。そして同時に、二度と起きることはないだろうと告げられた。
 その時の静閑たらなかった。
 それには理由がある。
 今、この国に王はいないのだ。
 前の王は、7日前に黄泉への旅路を辿った。それは比喩ではなく、まさしく黄泉の国へ行くために、この国を出たのだ。それでも国は沸き立って、その道を明るく飾った。次の王がすぐに立つはずだったのだ。
 戴冠式は女王の16の誕生日と同時に行われるはずだった。
 全ては過去形だ。
 祇官長はため息をついた。
 まだ若い王女には勿論後継者などいない。また、兄弟もすでに鬼籍に入っている。こんな前例は国の歴史書を繙いても出てこない。侃々諤々として結論の出ることのない争いが起こるだろう。

 それでも、祇官長はどこか安堵していた。
 ――――この人は王に向いていなかった。
 改めて玉顔に目をやった。

 継承者の宿命。
 それは物心ついた頃から始まる。
 それでも、7つを数えるまではのびやかな教育が行われていたはずだ。姉の太子が亡くなるその時までは。
 姉が死んだ次の日から、彼女の身辺は一新した。周囲の者たちは権勢をものにしたかのように、色めきだつ。しかし彼女を待っていたのは、朝から晩まで続く帝王学だった。
 一寸の隙さえなく、全てが、やがて来るその日のために。だからこそ王は力をものにするのだ。
 しかし、その重圧に彼女が負けたのは、そう遠くはなかった。
 やがて、彼女の鬱憤は浪費へと向けられた。
 華美な物を好み、華美な者を好んだ。
 宮廷を明るく華やかにしたという点では好まれた。
 しかしやがて寵愛は行き過ぎたものになる。
 世辞に長けた軽薄な者を愛し、実直な現代の権威を疎んじた。次第に風潮は不満に転じる。このままでは次の王の時代は権勢を失う、それどころか薄っぺらなものになる。
 慌てた世間は二分する。追従する者と、静観を決めたもの。面と向かって批判する者はいなかった。それほど気概のある者は残念ながらいなかったのである。
 まだ一介の祇官に過ぎなかった祇官長は、当時どちらにもつかなかった。興味がなかったのである。星を読みながら、適宜に努められれば良かった。若くして祇官長となった今でも、それは変わっていない。口にすれば不敬罪にもなりかねないが、彼は淡々と日々を過ごした。
 幼い頃は、天真爛漫に笑顔を振りまいていた。みんなに愛されていた姫だった。
 祇官として伺候するようになってから、彼は久しぶりに彼女を垣間見た。
 美しく成長なされた、と思った。
 雪のような白さの中に広がる、どこまでも奥深い海のような瞳。キュッと真横に結ばれた唇は生血のように鮮やかだった。
 しかし、彼は感じた。
 ―――――もう昔の彼女ではない、と。



 祇官長となった今では、星を見上げるということも少なくなっていた。
 それでも毎朝の申し送りで、前日の様子が報告される。何か特別な兆候が見られると、夜半でも彼に直接報告が挙がるような体系も作った。

 5日前の夜。彼女が倒れた夜だった。
 空から一つの星が消えた。
 王だけの星が。
 王となる者が生まれた時に、突然生まれる星。王宮の定まりごとである。彼女の場合も、勿論例外ではなかった。
 それが、急に光を失った。それだけではない。流れ星が一つ落ちてきて、そのまま空に浮いた。その星の空いた所へ。
 これは何を意味するのかと意見が交わされたが、いまだに議論の決着はついていない。
 病気の平癒なのではと期待もされたが、そのまま、彼女は永遠の眠りについてしまった。



 深く息を吐くと、額に手を置いた。

 これから忙しくなる。
 彼の頭に浮かんだのはそれだけだった。
 哀しむほどには親しくも、権勢を保証されていたわけでもない。ただ、彼女の死を事実と受け止め、すこし呆然とし、すこし彼女が可哀想だな、と思った。

「グレーシェル様……」
入り口の扉が細く開き、小侍従の一人が彼を呼んだ。
これから会議が行われる予定だった。
「わかった」
雪を少し掻くようにして、姫の青銀の髪に触れた。
さらりと音を立てるように、幾筋かが額からこぼれた。
何の感慨もなく、無表情な顔で背を向けた。
侍女たちの何人かが彼を恨むような顔で見る。
彼はお構いなしに扉に手をかけた。
その時――――。

「ひっ……」
後ろで小さな悲鳴が起きた――――見てはいけない恐ろしいものを見た時のような。

知らず、彼の背中には冷や汗が流れた。
見てはいけない、そう、何故か思った。
しかし、この目で、確かめねば――――。

振り向いた彼を、2つの青翠の玉がこちらを向いていた――――。





2009.01.04改

▲戻る  ▲次へ  ▲月華地維home  ▲fiction  ▲home