3.覚寤1
 真っ暗な世界。
 どこまでも、どこまでも、止まない闇。
 宙に浮いているのか、地を踏んでいるのか。
 とりあえず手足を伸ばしてはいるが、風も重力も何も感じることはなかった。
 これが死の世界か、となんとなく思った。
 頭は茫然として、現実感がない。
 そう思っていると、いつのまにか足下にぽっかりと光が生まれていた。

 落とし穴のように、まんまるに開いた黄華。

 へんだなぁと思うこともなく、全身を気怠い虚脱感に委ねていた。
 なぜこんなに疲れているのか。
 ただ手足を漂うがままにさせているのに……。

 音というものも一切なく、頭のなかにうわんうわんと夢幻の音が生まれた頃、そっと耳に衣擦れの音が囁いた。
 首だけをゆっくりと動かす。
 闇の中に、何故か人影が浮かんだ。
 もしくは、ぽぅと、人が照っていた。

 口を開くが、口内が渇いていて声が出ない。
 そのまま虚ろな目を向けていた。

 「たかさきそらのさんですね?」

 心地の良いテノールが、脳内に響く。
 月の上へその姿が立ったとき、ようやくその姿を認める。まだ少年とも青年ともつかない狭間の中性的な、同年代の男の子。その全身はゆるやかな漆黒のローブに包まれ、顔にも半分影が落ちていた。
 外国の人だ、と判断する。
 灰褐色の前髪の奥に、緑の双眸が覗いている。
 雨上がりの薫る緑。深い深い翠碧色だ。
 同じ年頃の男の子にしては、深淵を湛えている。
 「高崎、天之さん?」
 返事を問うように降る声。少女は慌てて頷いた。
 「あなたは?」
 「名前を聞かれているのなら、ルドルフ・ルードヴィヒ・ワヤン。任は、時に迷った魂を導くことにあります」
 「……ここは……?」
 「どことお答えするのは難しいのです。ここは時の狭間。強いて言うなれば、どこでもない、というべきでしょう」
 流暢な話しぶりは必要以上に丁寧であり、音楽のようにこぼれ落ちる。一瞬聞き惚れるが、思ってもみなかった展開に、少女は困惑した。
 「どこでも、ない?」
 てっきり自分は死んだものと思いこんでいた。
 痛い思いをせずに済んだのは物怪の幸いだと思っていたのが、時に迷っているとはいずこをはかりとすればいいのか。
 「……覚えていらっしゃるでしょうか」
 そこで初めて、彼は言い淀む。
 「高崎天之さんは、お亡くなりになったんです」
 思考停止。
 それならこの場はなんなのか、と首を傾げる。
 夢だとしてもだんだんおかしな展開になってきた。それとも、夢だからなのだろうか。もしかして、自分はただ温々とした布団にくるまれて眠っており、その夢想に取り込まれているのか。
 「どういうこと?」
 「あなたは学校の屋上から落ちられたのです」
 「落ち、た……」
 一瞬に蘇る、フラッシュバック。
 目覚める前の一寸前の記憶。
 友人から電話があり、学校へ走って、階段を上り、屋上から一緒に――――。
 背中にピリと一筋の電気が走る。その電撃を受けて、足からも手からも力が抜ける。ただ、重力の感じない世界では、崩れ落ちることはできなかった。
 心臓が持ち上がるような浮遊感。ジェットコースターよりも尚ひどい落下。
 胃の奥がひきつるような不快感を感じ、思わず口を手で塞ぐ。堪えきれなかった息が、咳となって迸った。
 ――――これは夢ではないの?
 夢であってほしい。しかし、感覚は事実と述べている。
 「私は……!」
 小さな咳が、思いと共に飛び出る。
 「……私は、死んだの?」
 あえぐように言った。
 「残念ながら」
 短く言い放ったのは、感情の隠っていない声。偏に事実を告げているように。しかし今の少女には、それが却って優しさのように感じた。
 「あの子は……優実は?ここにいるの?」
 「彼女は、いるべき世界へ」
 「じゃあ、助かったのね」
 ほっと、息を落とす。
 安堵と嫉妬が心をごちゃまぜに掻き混ぜる。
 どうして友人の無事を心から喜べないのか。恐るべき罪を暴かれたように、自分を激しく律した。
 「あなたは、わたしを天国へ連れに来たの?」
 「そんなものじゃありません」
 ひどく自嘲的な声で、感情が表れる。彼はふっと微苦笑した。その佇まいがあまりにも哀切を誘う。その表情につられて、何故か胸にこみあげた。
 「おとうさんと、おかあさん……きっと心配して……」
 口をついて出た言葉は、自分を刺激した。
 もう戻れないのだ。
 もうあの世界には、自分の命はないのだ。
 ――――自分は死んだのだ。
 目が覚めて、足下の大きな月を見て以来、本当はそれを知っていたのだと気付いた。本当は知っていたが、知らない振りを……気付かない振りをしていたのだと。
 「わたし……」
 こみあげる嗚咽を止める自信がなく、言葉を切った。
 濡れた瞳を彼へ向けた。彼は少女に眉を顰めてみせた。
 「したいことも、まだいっぱい……高校だって入ったばっかりで……」
 彼が近寄ってくる。白く歪んだ世界の向こうに、黒い影が見えた。
 ふわりと、背中に温かい手が置かれた。身体はビクリと反応する。しかし芯はそれと反対に優しいものに包み込まれた。心が大きく揺らぐ。
 手が二回、背中を撫でた。
 小さな頃、覚えのある感触。
 子どものようにあやされて、傾いだ気持ちが一気に雪崩れ落ちた。
 わあわあと声を挙げてなく中、優しい声が降ってきた気がした。

 「お泣きなさい」

 余計、涙が留まらなくなった。





2009.01.04改

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