虚脱している時でも強固に否定していた重力の無さを、泣きわめいた身体は素直に認めていた。竦むことすらできないと思っていた足は、いつの間にか伸縮され、闇の中の地面へとついていた。
一頻り泣き喚いた後、少女の声は枯れ、目は腫れている。
ぎゅぅと握っていたルドルフのローブには軽く皺が出来ていた。
「ごめんなさい」
まだしゃっくりの残る声で、彼から離れた。
自分では大人になったと感じてからは、誰かに縋り付いて泣いたこともなかった。それが今は立った今まで見も知らなかった人の衣服をがっちり掴んでしゃがみ込んでいた。恥ずかしさから、少々突き放すように離れてしまった。
彼もそれに気付いて、微笑して少女から離れた。
「ちょっとショックで」
頬を伝う涙を掌で拭う。少女が微笑むのを見ると、彼は真剣に頷いた。
「あなたは正心な方ですよ」
「せいしん?」
えぇ、と苦笑する。
「自分が死んだと気付いた人は、大抵、納得せずにその場へ居座るか、逆上して襲いかかってくる人、生き返らせろと詰め寄ってくる人ばかりです」
「すごい」
少女は呆気にとられた。
その反面、なるほど、とも得心する。自分の死という人生最大の(人生が終わった後だけれど)告知を承った直後はそんなものなんだろう。自分がこんな落ち着いているのは、決して実感がないからではない。彼の雰囲気がそうさせているのだろうと思う。事実、少女は自分の死をたいそう実感している。
「あなたの名前、なんだっけ」
彼は小首を傾げる。その仕草がなんだかかわいく思えて、くすりと笑いを零す。
「名前は大切なものよ。相手を知る第一歩だもの」
「ルドルフ……ルドルフ・ルードヴィッヒ・ワヤンです」
「ルドルフ・ルートヴィッヒ……なんだか貴族みたいな名前ね」
苦笑が返ってくる。
それ以上の答えを呑み込まれてしまったようで、聞けなかった。
しばしの沈黙に包まれてしまう。
「……連れていかないの?」
「どこへですか?」
「死の、世界……とか」
「あぁ」
彼は徐に手を前へ伸ばし、何かを掴みとる動作をした。すると手の中に、一本の杖が握られていた。目を瞬いてみたが、間違いはない。いつの間にかそれは現れ、実現していた。
「私はあなたに、未来を導きに来たのですよ」
「未来?」
頭にアメジストのような石のついた節の無い一本の木の杖。すっと足下の月を衝くと、光が湖面のようにさざめき、色付き始めた。やがて波が落ち着き、形を現す。
その映像へ載せていた足を、はっと縁へ寄せる。
教室のように大きな室だった。暗い室内に、幾本もの蝋燭が灯され、室内を煌々と照らしている。実際に見たことはないが、写真で見たことのある外国の宮殿のようだ。決して狭い部屋ではないのに少し息苦しく見えるのは、人が群れ集まっているからだろうか。カメラのような定点視点ではないが、繁雑でもなく、人を縫うように視点が展開する。二人の目は、寝台へと向かった。
寝台の脇には一人の青年が佇み、その寝台の上には一人の少女。
青年の、冬に差し込む日差しのような淡い金髪はひときわ目立っていた。しかしその顔は映しだされず、少女を接映する。
少女は雪で青い絵の具を溶いたような、青銀の髪を白いシーツへ広げていた。長いまつげが白い頬へ影を落としている。唇はふっくらと紅色。艶やかな寝姿は見る人を感嘆させる。同じ年頃のように見えるのに、どうしてこんなに艶っぽくいられるものかと嘆息した。昔読んでもらった物語が目の前に息づいていた。
「彼女の名前は、シュリア=リシェルーア・ウィンクレット・ハーグリー。もうすぐ亡くなります」
息を呑んでルドルフを見る。
死にいく人を見るのは初めてだった。しかも同じ年頃のお姫様のような少女……。
「何故?」
もう一度、月へ目を落とす。
白くても尚活き活きと、皮膚の下の血液が踊っているように見える。それなのに、彼女は亡くなるという。不可解だった。
「それが運命ですから」
あっさりと彼は言い放ち、杖をすっと横へ滑らせた。
すると、映像に波が浮かび、再び元の黄華へと戻った。
「あれが、あなたです」
少女は首を傾げた。
「どういうこと?」
「あれが、これからのあなたの未来です」
「それって――――」
少女の表情が急に強張った。段々と脈が速くなるのを感じ、思わず胸を押さえた。
「彼女は一度亡くなります。魂が抜け出たところへ、あなたの魂があの身体へ。そうしてあなたは生きるのです」
トクン。心臓がはねる。
「なに、それ……」
「あなたは、シュリア=リシェルーア・ウィンクレット・ハーグリーになるのです」
死の宣告よりも、残酷なものに感じた。
「わたしは、わたしよ……」
絞り出すように言う。喉をきゅうきゅうと締めていないと、ひどい言葉が口を出そうになる。
「それが運命ですから」
今度は、少し苦しそうに言った。
「わたしはっ!」
ヒステリックに叫ぶと、少女は俯いた。
涙を必死に堪えているようだった。少し顔は上気し、歯を食いしばっている。その様子を見て、ルドルフは目を伏せた。
「わたしは、高崎天之、よ」
声がうわずっている。
「はい……」
「わたしは死んだの」
「……はい……」
「わたしは、あの子ではない」
「わかっています」
堪えきれなかった数滴の水が、頬を伝って足下へと落ちた。普通の地面であれば、落ちた瞬間に染みを作っているはずだ。
「わたし……」
だだっ子になったように、足下へ座り込む。
少女の思いがわからないでもなく、彼はローブを脱いで、少女へと着せかけた。ほっとする優しさが少女を和ませる。
「すみません。私はいつも言葉が足りないのです」
自嘲するようにルドルフが言う。
その言葉がずきりと胸を差したが、言葉が少ないからこそ、彼からは優しさを感じ取ることができるように思った。
「違うの」
斟酌するように窺う双眸に金色が宿る。怪訝に思ってじっと見つめると、彼の翠碧色の瞳には、少し金色が混じっていることに気付く。不躾な視線にも、彼は微笑した。それに気付いて、少女は顔を紅く染めた。顔を隠すようにローブを押し抱き、あまりの柔らかさに思わず顔を埋める。
「一つ、聞いていい?」
こくりと頷くルドルフの服装は、変わった形の襟のシャツにスカーフタイをかけ、黒の長いジャケットには華やかな金糸の刺繍が細やかに咲き誇っている。ベージュのズボンは長いブーツの中に収まっている。どこからどう見ても、映画の登場人物の様だった。
「あなた、何者?」
笑いかけると、彼も優しい笑顔になった。
その笑顔が、少女の心の中に、ほっこりと大きく位置を占めた。
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