3.覚寤3
 「一つの世界は、一枚の長い紙のようなものだと思って下さい」
 ルドルフが杖を水平に動かすと、終わりが見えないほど遠くまで伸びた二枚の紙が水平に、目の前に浮かぶ。目をこらしてみたが、どうにも果てが見えない。ルドルフはそんなことにお構いなく話を続ける。
 「永遠に終わりのない一枚の紙です。この世界全体にはそんな紙が何枚も重なっています。いつもはピンと張っていて、お互い交わることはない。けれど時々、何かの弾みで、そう、あり得ないことが起こるのです。今回のあなたのように。紙が弛むと、その紙は他の紙とある一点で接します」
 杖を徐に上の紙へ乗せると、ついと下へ重みを加えた。紙は撓んで、下の紙へぎりぎりのところで接する。
 「その一点というのが世界と世界の交点です……言っていることがわかりますか?」
 「なんとなく、は……」
 「神隠しとか、前触れのない失踪が起こるのはそういう時です」
 少女は嘆息した。
 SFやファンタジーなどの物語のような話だ。少女はそういう類の本も好んで読んでいたが、しかし今の主人公はまさしく自分だ。物語とは概してそんなものなのかもしれない。
 「じゃあ、今いるこの場は?世界と世界が直接繋がってしまうのなら、何故私はここにいるの?」
 「紙と紙の間に薄い膜があるのです。少しの弛みならその“膜“がはじき返してしまう。また、違う世界に辿り着く前に、その“膜”に囚われてしまう者もいる。そしてその“膜”というのが、ここのことです」
 「ワヤンさんも?」
 「ルドルフで結構です」
 「ルドルフ、も、“膜”に囚われた者?」
 彼はゆっくりと頭を振る。
 「私はね、生きてはいないのですよ」
 達観したようなさっぱりとした顔だった。
 「生きてないって、わたしと同じ様な状態ということ?」
 「いいえ。死んでもないし、生きてもいないのです」
 頭の中にぽんぽんと疑問符が浮かぶ。
 幽霊みたいなものか、と思う。
 「幽霊、ですよ」
 心を読まれたようで、どきりとする。けれど、彼の顔にはなんの表情も浮かんでいなかった。
 「厳密に言えば、時を持たない者です。どこの世界も、どこの時間も、私たちには関係がない。いわゆる不老不死のようなものです」
 測るように少女の顔を見る。少女は難しい顔をして俯いている。すっと彼へ顔を向けたときには、哀しそうな笑顔を浮かべていた。
 「……寂しいのね」
 彼に小さな電流が走った。
 大抵の反応は、目を輝かせ、自分もそうなれるのか、そうしたら死ななくて良いのかと言った。もしくは、そんな面倒なことになってまで生きていたくはないという嫌悪。この少女のように、人を労るような言葉をかける者はほぼいない。
 「未来も、過去も、置いてけぼりね。寂しいわ」
 ルドルフは久しぶりに、ただの人として扱われた。時に神格化され描かれる彼らの姿を、人は人と思わない。あまりに差が開いているからだ。不満やエゴをぶつけられはすれど、思いを察する人などいなかった。
 「……ありがとう」
 思わず目の奥が熱くなる。
 「君に逢えて、良かった」








 御伽話の中のお姫様。
 それに今から自分がなるのだという。
 今までの常識とかけ離れている『この世界の常識』に馴れ始めている自分に気付いた。

 「どうしてもいかなくてはいけないの?」
 「それが運命ですから」
 運命という言葉を口にするとき、ルドルフはいつも少し苦しそうな顔をする。
 「高崎天之としてのわたしの記憶はどうなるの?消えてしまうの?」
 それは哀しいことだと思う。記憶喪失になってしまえば、今こうして困っている自分はいなくなってしまう。その時には一掃すがすがしい気持ちになるかもしれないが、今まで16年間溜めてきた数々の記憶がなくなってしまうのは寂しい。辛いことも悲しいことも詰まっているが、それも全部自分を蓄積してきたものだと認識している。だからそれらも全て無くしたくないと思う。
 「あなたの魂があの身体の中へ入るのです。記憶は消えません」
 すると、自分は自分のまま、これから行く世界の常識など全てが抜け落ちたまま、その世界へ飛び込むことになる。急に変わった知り合いのことを、頭がおかしくなったとだけ思うかもしれない。誰を頼って良いのかもわからない。それ以上に、誰も本当の自分を知る人はいないのだ。
 「きっと、大変、でしょうね」
 そうだろう、とルドルフは心の中でつぶやいた。
 少女にとって、新たな世界へ迷い込むことは死ぬ以上に辛く、しかもこの後、彼女を待っている運命はそれ以上に辛いことを、彼は知っている。彼女をこのまま安らかに黄泉路へ連れていてやりたいとも思う。
 だが、これは彼の仕事であると同時に、世界の全てを決める『運命』に定められていることだ。彼が勝手に変えることはできない。
 何の返事も出来ずに黙ったルドルフを、少女は責めない。代わりに苦笑した。
 「あなたに言っても仕様がないのはわかってる。でも誰かに言いたかったの」
 ――――謝るのは、僕の方だ。
 「私どんどん嫌な子になる」
 両手を頬に当てる。みるみる内に少女の瞳が潤う。
 「……怖いの……」
 頼りなさげに手は宙を漂い、はっしとルドルフのローブを掴んだ。
 小刻みな手の震えが率直に伝わってきた。
 「どんどん、わたしがわたしじゃなくなるみたい」
 これから行く世界は、こんなに素直な少女が置かれる境遇にしては、辛いものがある。だがそれでも、彼女にはその世界へ行き、生きてもらう必要がある。
 「あなたはあなた、ですよ」
 こんな言葉で慰められるとは思わない。何か声をかけたくても、ルドルフはそんなことを今まで思ったこともなく、何を言って良いのかわからなかった。これ以上、少女が弱気になる言葉をかけてもいけない。本当にあの世界で生きられなくなってしまう。
 「もう、行かなくては」
 少女の手をローブから離す。少女は一瞬傷ついた顔を浮かべたが、大人しく従った。
 それでも一歩食い下がる。
 「お願いが、あるの」
 「なんです」
 突き放すような声。少女が彼の目を見つめると、言葉とは逆しまに痛々しい表情を窺えたことに少女はほっと安堵の息をもらす。
 「時々、会いに、来て?」
 気まずい思いから、上目遣いになる。
 少女の思わぬ発言に、ルドルフは驚愕していた。
 「そんなっ、無理です」
 「わたしを知らない人に囲まれて……今までのわたしがわたしだったと言ってくれる人が欲しいの!ずっとなんて言わない。時々でいいの」
 彼は狼狽した。今までそんなことを言われたこともなかった。自分は現実の世界には触れ合うことのない存在だと戒めているのだ。第一そんなことをしては運命に破綻をきたしてしまう。
 半歩あとじさる。嫌な汗がじわりと額に浮かんだ。
 「基本的に、私たちは人に不干渉なんです」
 少女は身じろぎして、過剰に肩を落とした。
 「……お元気で……」
 ルドルフは辛うじて、喉から絞り出した。少女は瞳に寂しさの影を落とした。それでも、もう行かなくてはいけない時間が近づいている。もうあの身体から魂の抜け出る刻だ。
 少女を、黄華のまんなかへ導いた。
 「運命は、あなたとともに」
 この世界で、誰かを見送る言葉だ。幸せを願って掛ける言葉でもある。
 黄華の輝きがひときわ大きなものへと変じた。だんだんと光に白い筋が混じっていく。ほの白い光に少女の全身が包まれたとき、口を開いたように見えた。
 彼の耳には届かなかったが、何を言ったか分かった気がした。




 「行ってしまったね」
 彼の後ろから声を掛ける者がいた。そんな者は一人しかいない。
 「サンジェルマン伯」
 「なんだい。そんな顔して珍しい」
 そういう男の声は、全く驚いてもいなかった。サンジェルマンと呼ばれた男は、にやりと蛇のような笑みを浮かべた。
 「久しぶりに大変な運命を持った子を見たねぇ。あれはシバの女王なんかよりもとんでもない過酷な道かもしれないよ。彼女、耐えられるかな」
 面白そうにルドルフを見つめた。ルドルフの不安を煽るような言い方は、男の独特の言い回しだ。
 「伯爵、いつからここへ?」
 「つい今しがただよ。久しぶりに君の姿が見たくなってねぇ」
 どこまでも人を嘲笑するような笑みを浮かべても、誰も何も言えない。この飄々とした生き方が原因で国を追われた者とは思えない。伯爵とまともに会話してはいけないということを、これまでに身をもって実感している。
 「用がないなら――――」
 「大きな渦だよ」
 訝しげな目を男へ向けた。
 伯爵が真っ直ぐに腕を上げると、目の高さに、先程まで黄華に浮かんでいたような映像が浮かぶ。先程の世界と同じところのようだ。映った鏡には、シュリア=リシェルーアと呼ばれた少女が目を覚ましていた。
 「彼女を中心に時代が渦に飲み込まれている。君には見えるかい?もしかしたら君に見えている運命とは違った方向に流れていくかもしれないよ」
 目を瞠って伯爵を見た。
 「彼女にはそれだけの気勢がある。恐ろしい子だねぇ」
 「あなたには、彼女の運命がはっきりと見えているのですか?」
 時を持たない者たちの中にも、力の優劣は確然とある。力があればそれだけ自由に刻を見通すことができる。ルドルフもある程度の力を持つ者ではあるが、サンジェルマンは格別だった。
 「さてね」
 伯爵ははぐらかすことが好きだったと思い出す。
 やりきれない思いに打ちのめされながら、ルドルフはその場を立ち去った。
 残された伯爵は、一人悠然と佇んだ。
 「君も十分、その運命に巻き込まれているんだけどね」
 それだけ言うと、伯爵もどこかへ姿を消した。





2009.01.07改

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